伊曾保物語 (中) - 31 獅子王とはすとる事

 ある時、師子王其足に株を立て、その難儀におよびける時、悲しみのあまりはすとりのほとりに近づく。はすとるこれをおそれて、我羊をあたへてけり。師子王、羊を犯さず、わが足をはすとりの前にもたぐ。はすとりこれを心得て、その株を拔いて、藥をつけてあたへぬ。それより獅子王山中に隱れぬ。
 ある時、かの師子王狩に囚はれて篭に入られ、罪人を入れて是を■らはしむ。又、かのはすとり、その罪あるによ(っ)て、かの獅子篭にをし入。獅子王敢へてこれを犯さず。かへつて涙を流いてかしこまりぬ。しばらくあつて、人々篭の内を見るに、さしもに猛き獅子王、耳を垂れ、膝を折つて、かのはすとるを警固す。物の具を入れて犯さんとするに、獅子王是をかなぐり捨つ。主此事を聞きて、「汝なにのゆへにかかくけだものにあはれまれけるぞ」といひければ、件の子細を申あらはす。人々此由を感じて、「かゝる畜生に至るまで、人の恩をば報じけるぞや」と感じあはれみける。これによ(っ)て、獅子王もはすとるをもゆるされぬ。
 其ごとく、人として恩を知らぬは、畜生にも劣る物也。人に恩をなす時は、天道これを受け玉ふなり。いさゝかの恩をも人に請ば、これを報ぜんとつねに思へ。