ある中間、主人の馬に乘りて、はるかの餘所へおもむく所に、さぶらひ一人行あひ、則怒つて云、「我侍の身としてかちにて行くに、汝は人の所從なり。その馬よりおりて、我を乘せよ。しからずは、細首斬つて捨てん」といふ。中間心に思ふやう、「此途中にて訴うべき人なし。とかく難澁せば、頭を刎ねられん事疑ひなし」。是非にをよばず、馬よりおりけり。侍わが物顏にうち乘(っ)て、かれを召つれ行くほどに、さんといふ所に難なく着きける。中間そこにてのゝしるやう、「わが主人の馬なり。返し給へ」と云。侍馬に乘ながら、「狼藉なり。二たび其聲のゝしるにおゐては、運氣を刎ねん」といひければ、中間いんともせずして、その所の守護識に行きて、この由を訴う。
去によつて、守護より武士をつかはし、かの侍を召し具しけり。かれとこれとあらそう所決しがたし。守護に理非を分けかねて、伊曾保をよびて檢斷せしむ。いそ保これを聞きて、まづ中間を語らうてひそかに云、「かのさぶらひ糺明せん時、汝あはてゝ物いふ事なかれ」といましめらる。中間謹しんでかしこまる時に、伊曾保のはかり事に、うはぎを脱いでかの馬のつらに投げかけ、さぶらひに問ひけるは、「此馬のまなこ、いづれかつぶれけるか」と問。侍返事に堪へかねて、思安する事千萬なり。思ひわびて、「左の目こそつぶれたる」と申。其時うはぎを引きのけて見れば、兩眼誠にあきらかなり。これによつて、馬をば中間にあたへ、かのさぶらひをば恥ぢしめて、時の是非をば分けられけり。