さる程に、伊曾保りいひやの國にまかりのぼり、勅使と共に參内す。御門この由叡覽あつて、「あやしの物の帶佩やな。かゝるみにくき物の下知によつて、さんの者ども我命を背きけるや」と逆鱗ある事輕からず。すでにいそほが一命もあやうく見え侍りければ、いそ保叡慮を察して言上しけるは、「我に片時のいとまをたべ」と申ければ、「しばらく」とて御ゆるされをかうむる。その時、いそ保申けるは、「ある人、螽を取つて殺さむとて行きける道にて、蝉を殺さんとす。蝉愁いていはく、「我罪なうしていましめをかうぶり、五穀にわざもなさず、人に障りする事なし。夏山の葉隱れには、わがすさまじき癖あらはしぬれば、暑き日影も忘れ井の慰めぐさと成侍れ。甲斐なく命を果たされ給はん事、歎きてもなをあまりあり」と申ければ、「げにも」とてたちまち赦免す。其ごとく、わが姿かたちはおかしげに侍れど、わが教へに從ふ所は、國土平安にして、萬民すなほに富み榮へて、善をもつぱらに教ゆる者にてこそ侍れ。蝉とわれとそのたがはず」と申ければ、御門大きに叡感あつて、「さらば」とて勅勘を赦免なされ、「此上は、汝が心に望む事あらば、奏聞申せ」と仰ければ、いそほ謹(つ)しんで申あげけるは、「われにことなる望なし。われさんに年久敷あつて、人の下臈にて侍りけるを、所の人々申ゆるされ、獨身とまかなりて、心やすく侍りき。その恩を報じがたく候へば、かの所より奉るべき物をゆるさせ給へかし」といひければ、御門この由叡覽あつて、かれが望みを達せんため、さんの御調物をゆるされけり。