ある法師、道を行ける所に、盜人一人行きむかつて、かの僧を頼みけるは、「見奉れば、やんごとなき御出家也。われならびなき惡人なれば、願はくは、御祈りをもつてわが惡心を飜し、善人となり候やうに祈誓し給へかし」と申ければ、「それこそ我身にいとやすき事なれ」と領掌せられるぬ。かの盜人も返\/頼みて、そこを去りぬ。
其後はるかに程經て、かの僧と盜人行きあひけり。盜人、僧の袖を控へて、怒つて申けるは、「われ御邊を頼むといへども、その甲斐なし。祈誓し給はずや」と申ければ、僧答云、「我其日より片時のいとまもなく、御邊の事をこそ祈り候へ」とのたまへば、盜人申けるは、「おことは出家の身として、虚言をのたまふ物かな。その日より惡念のみこそおこり候へ」と申ければ、僧の謀に、「俄に喉かはきてせんかたなし」とのたまへば、盜人申けるは、「これに井どの侍るぞや。我上より繩を付て、その底へ入奉るべし。飽くまで水飮み給ひて、あがりたくおぼしめし候はば、引き上げ奉らん」と契約して、件の井どへおし入けり。かの僧、水を飮んで、「上給ヘ」とのたまふ時、盜人力を出してえいやと引けども、いさゝかもあがらず。いかなればとて、さしうつぶして見れば、何しかはあがるべき、かの僧、そばなる石にしがみつきておる程に、盜人怒つて申けるは、「さても御邊はをろかなる人かな。その儀にては、いかが祈祷も驗有べきや。其石放し給へ。やすく引き上奉らん」と云。僧、盜人に申けるは、「さればこそ、われ御邊の祈念を致すも、此ごとく候ぞよ。いかに祈りをなすといへ共、まづ御身の惡念の石を離れ給はず候程に、鐵の繩にて引上る程の祈りをすればとて、兼の繩は切るゝ共、御邊のごとく強き惡念は、善人に成がたふ候」と申されければ、盜人うちうなづゐて、かの僧を引上奉り、足本にひれ臥て、「げにもかな」とて、それより元結切り、則僧の弟子となりて、やんごとなき善人とぞなりにけり。此經を見ん人は、たしかに是を思へ。ゆるかせにする事なかれ。
伊曾保物語下終